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自分の人生を振り返ってみて感じたことや考えたことをアウトプットしてみました。

自分を否定するこころ。 自分を確認する。る 

自分を否定するこころ、自己肯定感の低さはどこからくるのか?

 

私は自己肯定感が低いです。

 

これまで自然に無意識に当たり前だったので疑う事なく、真剣に向き合う事もありませんでした。

 

ただ、私の生きにくさは両親の影響を受けてていることは何となく感じていました。

 

このような自分に対しての思い癖というもは、無意識な為にかなりやっかいだと思います。

 

私の両親は団塊の世代で、簡単に説明すると、子どものような大人でした。

放任。喧嘩ばかり。子どもへの愛し方、接し方が雑。

私の両親が悪い訳ではありません。

時代や家系の流れなど、私の両親も個人です。

いろいろな思いを抱えながら生きてきた。

両親を個人として理解しているつもりです。

 

私の自己肯定感の低さや生きにくさは、幼い頃の両親とのやり取りや関係性も一つの原因だと考えています。

 

両親は私に対して興味がない。

 

いろいろありますが、その中から一つ幼稚園の運動会の思い出を。

 

一緒に競技やお弁当。

「一緒に帰るから待っててね」と幼い私。

 

帰りも一緒だと思っていた私。両親を探すけど先に帰っている。

 

とても悲しくて寂しさを感じました。

 

大人になって思い出すのは、とぼとぼと坂道を小さな足で一人で家に向かう小さな私です。

 

ちゃんと思い返してみると楽しい思い出もあるはずなのに、思い出すのは、帰り道に感じた、寂しさ、満たされない気持ち。

 

先に帰った両親に幼い私は怒ったりだだをこねることもしなかった。

 

私は誰からも受け入れてもらえない、という寂しさがどこかにあります。

あの頃の私を思い切り抱きしめたい。

 

私の居場所、無条件に私が居られる場所。

それはどんな自分だろうと自分で作り上げていくしかない

 

いろいろな思いをして私たちは人生を生きています。

 

これまでの経験を通して自分は成り立っていることを知ることは、大切な何かに気付くきっかけになるかもしれない。

 

ありのままの自分を認める、受け入れていく。

 

大丈夫です。

自分を変えていく方法はいくつもあります。

 

インナーチャイルド

小さな頃の自分に寄り添うことで自分を知るきっかけができるかもしれません。

 

心理学的なセラピーを受けてみることもありだと思います。

心理学にはキネシオロジーなどがあります。

 

 

仏教について少しでもいいから知ってほしい。

 

仏教について少しでもいいから知ってほしい。

 

お釈迦様が宇宙の真理である仏の教えを私たちに説いたのが仏教の教えです。

 

眠たくなるあのお経には大切な真理やもの事の本質を知る方法が説かれています。

 

どのような人にも平等に苦しみがある。

なぜ人は苦しむのか仏教にはちゃんと答えがあります。

 

自分自身を整える方法として外側、内側、つまり行動や行い、気持ち、心理、感情、のあり方。なぜ、どうして、そうなのか?

 

お釈迦様は私たちにたくさんの仏の教えを知る入口を説いてくれました。

 

苦しみつらいと感じていたとしてもあなたは決して一人ではないことを知ります。

 

私はあまり上手くこのことについて伝えることができていません。本当にごめんなさい。

 

お釈迦様はなにを私たちに伝えたいのか?

 

これからあるYouTubeの動画を紹介をします。

仏教についてかなり核心をついた動画です。

 

三木大雲の「怪奇妙法伝」 ポニーキャニオン 全24話  https://youtu.be/BEydkKBZe18?si=OLiQrgbxgSwR-Hla

 

怪談を混ぜながらなので、あまり堅苦しくないと思います。

私的には必見の価値ありです。

 

どうかあなたに神仏の働きである冥加がありますように。

 

追伸 こちらの動画の順番表記が漢字数字です。

壱1・弐2・参3・肆4・伍5・陸6・漆7・捌8・玖9・拾10

 

 

 

超雑文。冥王星の水瓶座入り。意識の変化。

水瓶座冥王星。 意識が変わる瞬間

 


私たちは物質の世界で生きています。

 


物質世界の成り立ちは 時間、空間、物質が密接不可分の関係で成り立っている。

 


その土台に在るのは、個人の意識です。

 


冥王星水瓶座入りすることで何が変わるのか、私は単純に価値観の違いだと考えていました。

 


確かに、価値観は、簡単に変えることは出来ません。 なかなか変えることができない方もいるでしょう。

 

価値観(意識)は伝染する?

 

一部かもしれませんが、集団的意識の同調が起きてくるのではないかと思います。

 


心理学?的に言うと集団ヒステリー的な?

意識を共有している。

 


やはりこの世界の成り立ちの土台に在るのは、個人の意識です。

 

今、この瞬間に敏感な方は、もう感じているかもしれません。

 

何かが変わる、動く、何かが始まっていくような感覚がある。

 


着実に何かが変わります。

 

ひとつ確かなことは、個人の尊厳です。

個人にフォーカスしていく。

 


それによって、超管理型社会の幕開けになるかもしれません。 それは、近い未来なのかは分かりませんが、必ず訪れるはずです。

 


そして、どれぐらい先の未来かは想像できませんが、これからかなり遠い未来には、いずれは国境も失くなるはずです、地球という区切りに進んで行くことは想像できます。

もちろんその時に私は生きていないと思います。

 


今、どうすれば良いのかと考えた時。

 

自分が居る空間を整え、内なる声に耳をすまし、出来るだけ誠実であることを意識するだけではないかと思いました。

 

そして、魂の目線でもの事を考えながら生きたいと願う方にとっては、とても生きやすい瞬間が訪れるかもしれません。

 


魂の目線で生きることは簡単なことではないかもしれません。

 


成長していくということには、何かしらの苦悩は必要な気がします。

 

 

これまでの約15年間の冥王星山羊座の期間は、

個人(少数派)は肩身の狭い思いや、少し生き辛い環境にいた方もいたかもしれません。

 

地の時代を濃縮したような最後の一滴のような時間だったかもしれません。

 

しかし、全体的には、強制的に集団的な正義の崩壊は着実に進んでいました。

 


コロナによって、これまでの社会の価値観が大きく変わっていきました。

 

 

目覚める人たち 

人と比べる幸せをやめて、自分にとっての本当の幸せを求める。

 

冥王星水瓶座入りでは、これまでよりも、さらに地の時代の価値観は大きく変わって行くと思います。

強制的でないことを祈りますが、少なくとも、今よりは個人(少数派)が生きやすい瞬間が訪れるかもしれません。

 

とても個人的な勝手な考えですが、地の時代的なヒエラルキーやマウントなどの圧力をかけてくるような人はこれからの時代は悪目立ちするかもしれません。

(はっきりいうと意味不明な意地悪をする人)

 

水瓶座のテーマは博愛的なので、肩身の狭い思いをするようになるかもしれません。

 


まだ、新しい時代は始まったばかりです。

 


たくさんの情報が降り注いで来ます。

これから先も意識をどのように保っていこうか?

 

自分にとっての良い情報を求める。

 

しっかりと考え受け取っていきたいと思っています。

 

 

 

 

雑文。二極化。多様性。

二極化。多様性。

 

次元の上昇によって、人?の二極化が起こる。

その波に乗り遅れると、世界?時代?に取り残されてしまう。  

 

いや、それは違う多様性だよ。 このようなお話しよく聞きます。

 

いったい何事なのかと考えてみました。

あくまでも私の個人的な見解です。

 

まずは、何時の時代にも二極化は必ず起こっている。

 

歴史的にみても新しい価値観、考え方が生まれると、影のように古い価値観、古い考え方として二極化は在ったはずです。

 

文化、芸術、革命など全てのもの事を単純に同じ扱いで考えることは難しいのですが、二極化と多様性は必ず起こりました。

 

これまでの価値観から抜け出せない人。

新しい価値観を求める人。

 

両者共に自分で選んだ世界観に在るので、自分自身に何の疑問も無いはずです。

 

しかし、もしかしたら価値観が違うと、からみにくいとか、接し方に困るということになるのでしょう。

 

価値観の違いは人間関係において難しい問題です。

 

このようなことを考えると、人は、遥か昔から、二極化と多様性は必ず起きてきたはずです。

 

では、どちらがお得なのか?と考えると、やはり、新しい価値観を求て多様性を認めることができる人でしょうか。

 

このような方には、たくさんの価値観の数だけ、可能性の広がりが生まれるはずです。

 

養老孟司先生の著書、「バカの壁」ありましたよね。

 

確かに、今、テクノロジーの進歩、進化によってかなりのスピードで、新しい価値観がどんどんあふれ起こっています。

 

これは、さらにどんどんと加速して行くでしょう。

 

私たちは無意識ですが、お互いの意識を共有しています。

 

一部の方だけかもしれませんが、新しい時代の価値観は互いに同調や共鳴して、無意識に染み込んできます。

 

そうして、時間をかけて、いらない古い考え方、価値観は、世代の押し上げと共に次第に淘汰されていくのではないかと思います。

 

そして、これからの時代は、個人の尊厳、在り方にフォーカスされて行きます。

 

個人の尊厳を認めることは相手の尊厳も認めることが大切になるでしょう。

 

少し話しがずれているかもしれませんが、これから迎える水瓶座冥王星は個人の尊厳、在り方の再認識のようなことを強制的に突き付けてくるのではないかと考えています。

 

もしかしたら、相手の尊厳を認めることができない、多様性を受け入れることができない方は、少しつらくなる可能性があるかもしれません。

 

 

時には、何かを認めるということは、かなり、難しく厳しく感じることがあるものです。

 

しかし、焦る必要も無理に頑張る必要もない 自分のペースで進めて行けばよいと私は思い、考えています。

 

 

始まりのスタート。掃除をしないと運気は下がるのか?

始まりのスタート。

 

掃除をしないと運気は下がるのか?

 

掃除をしなくてもちゃんと仕事をして、生活出来ている人もいる。

 

掃除をしなくてもちゃんと生きて行ける。

 

このように考えたことがありませんか?

 

はい、ちゃんと生きて行くことはできます。

 

逆に掃除したから良い方向に生きて行けることができるのかもよくわかりません。

 

なぜにこのようなことを言うのか

 

ざっくりなのですが、人それぞれの持つ魂は唯一無二であり、個人の持つ相対、関係性は複雑であると考えているからです。

 

私の個人的な勝手な考え方かもしれません。

あまり理解されないかと思いますが私の考えのままに、だらだらとお話ししたいと思います。

 

一応、念のために私の意見としては掃除をすることはとても重要なことです。

私は強くおすすめします。

 

よほどの理由がなければ掃除はできる限りの範囲内でも、ピンポイントを押さえつつやるべきです。

 

私たちは、時間、空間、物質が織り成す世界に生きています。

そして、この世界は個人の意識が基礎に在ります。

 

どのような意識を持っているのか、めちゃくちゃ重要なのです。

 

このことはたくさんの方々が発信されていると思います。

 

運気をあげる。

人生をよくしたい。

 

ならば、2つの攻め方があります。

 

それは、内側か、外側かなのです。

 

内側とは、いかに誠実であることができるのか、これはかなり難しく、時には、かなり時間がかかるかもしれません。

 

そもそも、誠実さとは何かということもよく理解ができていない場合もあるかもしれません。

 

外側とは、その1つとして掃除です。

 

自分の周りを矯正することによって、自らを変えていく方法です。

 

外側からの矯正は、時に試練のような、つまり、好転反応のようなことが起こります。

 

あなたに強制的な変化が起こります。

 

それを受け取る為の学びがあります。

 

強制的な方向転換が訪れる可能性があります。

 

途中で挫折することも考えられます。

 

結局は、巡りめぐって、結果、どのような意識を持って、いかに誠実であることが大切なのかを知ることになります。

誠実さとはとても重要なことなのです。

 

選択を迫られ、答えが欲しい時。

 

最も良い答えが欲しいのならば、相手、自分に可能性の選択肢を与え、覚悟ができるのかです。

そこには、誠実さが必要になります。

 

相手が居るのならば、相手の利益をいかに考えることができるのか、そこは、かなり、苦しみを味わうかもしれない、自身の選択になるのです。

 

それは、一方的に理不尽で、きつく、つらい、覚悟が必要な時もあります。

 

仏教では他利と言うのかもしれません。

 

また、それと同時に、如何に執着を手放すことができるのかと問われます。

これもまた、時には、理不尽的、試練、覚悟のような手放しになるのでしょう。

 

自分と相手を執着から解放する。

もっとも純粋で本質的な利益を考える。

 

悩み、苦しみの原因のほとんどの根底には、執着が在ると言っても過言ではないと考えます。

 

例えばいじめって何だと思いますか?

何が本質的原因だと考えますか?

 

多分に、執着だと考えています。

 

いじめた本人にもよく理解ができていない心情が

多いのではないかと考えています。

 

テレビドラマなどでよく見るいじめっこって、めちゃくちゃしつこくないですか?

 

そこまでするのか?

 

追いかけてまで嫌がらせしている印象があります。

 

放っておけばよいのにね。

 

執着が強すぎて、自分自身、止めることができないのでしょう。

 

だから、いじめの問題の解決はなかなか難しいことなのかもしれません。

 

執着とは、本能、欲望。

仏教では煩悩と表現していると思います。

 

また、一応、粘り強さと執着は別のことと考えています。

 

何でもかんでも手放せばよいとは考えていません。

 

掃除をすることは、空間を整えること。

 

自分に難しく、苦しい、選択を向かえることがあったとしても、整えられた空間は、私に道を指し示してくれる。

 

私にとって、一番の良い流れを呼び寄せてくれるはず。

 

空間は私の人生の味方になってくれるはず。

 

お釈迦様は、いかに誠実であることが大切かを知り、執着がいかに自分を縛り、苦しめ、執着によって大切な時間を無駄にすることになるのかを強く説いています。

 

お釈迦様は苦しみから少しでも離れる方法として、内側と外側からのアプローチを教えています。

 

お釈迦様の教えは、一つ一つがパズルのピースの様なものです。

 

一つ一つの教えは全てをつなげた時に、ちゃんとパズル、一つの絵になっているのです。

 

私は、ちゃんと説明できているのでしょうか?

 

このブログの始めに、自分にとってのより良い人生の選択をする為には、「3つの事と一つのこと」が在るが、それはあくまでもスタートなのだということについてお話ししました。

※あくまでも、私の経験から得た、個人的な見解です。

 

その内容は、①掃除(捨活)、②方位学(空間の仕組み)、③食事(体の管理)、そして一番に重要になってくるのは、誠実さであるということ。

 

自分の可能性の広げ方は、一人一人、たくさん在るはずです、自分にとってより良い人生とは、今の自分の枠を越えた所に在るかもしれません。

 

それを見つける方法は、以外なやり方、方法、進め方に在るのかもしれません。

 

私たちの可能性は、無限に存在しているはずです。

 

私たちの生きる、この世界は、時間、空間、物質が密接不可分の関係によって成り立っています。

 

私たちの生きる世界には、この世界なりの法則や真理、が在るのでしょう。

 

あまり考え過ぎることは、時に良くないこともあるかもしれません。

自分の思いのままに人生を疑う事なく進められている方はそのままで良いと思います。

 

ただ、自分の方向性や可能性、人生に行き止まりの様な思いの在る方は一つの見解として受け取ってもらえると嬉しく思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑文。風水。鏡と空間。

鏡と空間。

風水では鏡は空間を整えるためによく使われるアイテムです。

建物の内外から鏡を使って邪気を跳ね返す又は、正気せいきを取り込むなどたくさんの使われ方があります。

 

今回は私が家の中にある鏡について感じたことをお話ししたいと思います。

※私の個人的な視点、感想が、かなり強いと思います。

 

「鏡に映るもの」について考えたことはありますか?

 

単身者向けの賃貸(ワンルームなど)などによくみられる間取りですが、

例えばバス、トイレ、洗面台が一ヶ所に集中していて洗面台の鏡にトイレの便器が映り込む場合。

 

玄関に鏡を掛けていて、玄関を開けてすぐキッチンがあり、その鏡にキッチンが映り込む場合。

特にガスレンジが映り込む。

 

など鏡にそれらが映り込むことによって、そのものの影響を二倍に増幅させます。

 

それは、例えば南に鏡があり、北に在るものが南の鏡に映り込むことによって、北と南の二ヵ所にそのものが在ることになります。

例えばトイレなら、トイレが二ヵ所在ることになります。

 

※風水では火場、水場、トイレの方位、場所は、邪気の作用がでやすいので、その扱い方を重要視します。

これらのものが在る方位は凶の作用が強く影響するといわれます。

 

家主がずっと映り込むような場所に在る鏡。

 

例えばリビングなどに在る姿見の鏡とか

 

部屋が狭い場合はどうしても部屋に居る間ずっと映り込むことは仕方がないのですが、私の個人的な意見ですが、空間が疲弊?歪んでいるような錯覚になることがあります。

まぁでも気のせいかとおもう訳です。

 

ということで、試しに実行してみました。

 

私のバス、トイレは一緒で簡易の洗面台の鏡にバッチリとトイレが映り込みます。

なので、鏡に布などで、覆っています。

水場なのでカビには気を付けています。

(三年近く実行中です。)

感じ方はそれぞれかと思いますが元に戻せません。

 

玄関に鏡がありました。

キッチンのガスレンジがバッチリと映り込むので今は外しています。

(三年近く実行中です。)

元に戻すつもりは今の所ありません。

 

私のリビングと寝室は、続きのような間取りで、襖で仕切ることができるのですがほぼ襖は開いていて寝室のドレッサーにリビング全体が映り込みます。

寝室なので、睡眠中も映り込みます。

最近ですが布で覆っています。

よく眠れる様になった気がします。(まだ3日目ですが)

 

しかし、鏡には「凶の作用」と同じように「吉の作用」も増幅させることができます。

多分空間を押し広げるような作用があるのかもしれません。

そのことについては考え中です。

 

という感じです。

 

いかがでしょうか?

何か心当たりの在る方はご参考までにとシェアしたくお話ししてみました。

 

テレビのドラマとかで見る昔の方って鏡に布掛けていませんか?

 

鏡には不思議な力があるかもしれないと私は思わずにはいられません。

 

 

 

 

 

超雑文。仏教。お釈迦様の教えのすごさ。

お釈迦様の教えの何がすごいのか?

仏教の教えはたくさんあります。

 

仏教とは、仏の教えです。

 

仏とは真理であり、その存在は、永遠であり、唯一無二。また、色、匂い、形がない、と表現されています。

 

仏とは、宇宙の真理だと考えています。

仏像で言うのならば、大日如来毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)のことでしょう。

 

仏の存在、この世の本質を説いた教えが仏教です。

 

お釈迦様は老若男女、能力に応じて教えを説いたのでその教えの内容はとても多様性にとんだものになっています。

 

その為なのか、人それぞれの人生の経過とタイミングによって教えの印象が二転三転と化学変化を起こします。

 

あの時はそうだと感じ、思えたことが、今はまた違う感じ方がある。

 

あの時の視点がさらなる高い視点に変わる。

 

「なるほど、こんな解釈、視点が在るなんて」とお釈迦様の教えの深さを知ると、さらにこれからも解釈が二転三転と化学変化することがあるのかもと考えるのです。

 

しかし、仏教の教えは何だか堅苦しい、難しいイメージがある人が少なくないと思います。

はい、私もその一人であります。

単細胞な私なりに考えてみた。

 

単純に考えた結果、そうです!お釈迦様の生きた時代と私たちの生きる時代の科学技術的な情報、言葉や時代の違いです。

 

お釈迦様の悟りを現在の言葉に変えることが出来たならば、それはとても、すごい内容になるでしょう、もちろんお釈迦様の悟りの全てを今の科学技術や言葉で解明することはとても難しいことと思います。

 

話しが長くなるのでキーワード的に仏教の教えを単細胞な私の勝手な考え、イメージを起こしてみた。

 

お釈迦様の教えの行き着く先は慈悲しかない。(他利)

 

宇宙の真理を擬人化して表現。

 

究極の思考「空」

 

維摩居士ゆいまこじ(最勝老人)という東浄土から地球?に転生してきたというすごい在家信者がいる。(これってスターシード?)

 

維摩居士はお釈迦様の教えをさらに押し広げてさらなる視点、次元に導くとても興味深いキーパーソンです。(二項対立、空の教え)

 

人としての在り方、道徳的な教えがたくさんある。自分の行動、行いによって人生、世界は変わっていく。(パラレルの選択)

 

お釈迦様の説いた教えは滅法の時代(約1万年後?)には無くなる?らしい。

(技術的進歩によってお釈迦様の教えは全て?解明されるのかも?)

 

お釈迦様は滅法の時代でも仏説無量寿経(浄土三部経)の教えだけは永遠に残ると説かれています。(宇宙の真理だから)

 

掃除による功徳の教え(物質世界を生きるヒント)

 

お釈迦様は涅槃を迎えられる直前に他人を拠り所とせず、自分を拠り所、自分を頼りにする。法(真理)を拠り所とすることが大切である。「自灯明法灯明」の教えを説かれた。

この「自灯明法灯明」の教えはとても深く簡単に理解することは難しく感じます、あえて言うのならば、「自分軸」の確立でしょうか?

 

お釈迦様はどのような時代であっても自分自身の在り方がとても大切だとおっしゃっている気がします。

 

私たちは大宇宙の一部である4%という物質の世界、私たちが作る現実に生きています。

 

「時間、空間、物質は互いに独立したものではない密接不可分である」

 

命(宇宙の真理)を宿した自分という物質の在り方。

 

因果応報、原因結果、善果悪果、善種悪種、十二因縁、全ては私の世界、私の空間に表れる。

 

大丈夫です。お釈迦様は迷う戸惑う私たちにたくさんの答えを説かれました。

また、テクノロジーの進化によって、たくさんの方々の経験を知ることができる。

注意は必要ですが、シェアすることができる。

 

解決するではなく、私たちの答えはたくさんあるはずです。

 

大丈夫。私が求める答えは目の前にあった。

 

お釈迦様は悟りを得た時に一瞬の戸惑いを感じました。

誰が私の得た真理の悟りを信じる者が居るのだろうか?

お釈迦様の悟りは深遠で摩訶不思議、雲を掴むようなものかもしれないと想像します。

しかし、それこそが宇宙の真理、超現実ではないかと考えてしまいます。

 

私は現実を生きながら、超現実を生きている。

 

末法という時代だからこそ、お釈迦様の教えを生かすことができる。

むしろ、末法に生きる私たちの為にある教えだと私は考えています。