超雑文。仏教。お釈迦様の教えのすごさ。
お釈迦様の教えの何がすごいのか?
仏教の教えはたくさんあります。
仏教とは、仏の教えです。
仏とは真理であり、その存在は、永遠であり、唯一無二。また、色、匂い、形がない、と表現されています。
仏とは、宇宙の真理だと考えています。
仏像で言うのならば、大日如来、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)のことでしょう。
仏の存在、この世の本質を説いた教えが仏教です。
お釈迦様は老若男女、能力に応じて教えを説いたのでその教えの内容はとても多様性にとんだものになっています。
その為なのか、人それぞれの人生の経過とタイミングによって教えの印象が二転三転と化学変化を起こします。
あの時はそうだと感じ、思えたことが、今はまた違う感じ方がある。
あの時の視点がさらなる高い視点に変わる。
「なるほど、こんな解釈、視点が在るなんて」とお釈迦様の教えの深さを知ると、さらにこれからも解釈が二転三転と化学変化することがあるのかもと考えるのです。
しかし、仏教の教えは何だか堅苦しい、難しいイメージがある人が少なくないと思います。
はい、私もその一人であります。
単細胞な私なりに考えてみた。
単純に考えた結果、そうです!お釈迦様の生きた時代と私たちの生きる時代の科学技術的な情報、言葉や時代の違いです。
お釈迦様の悟りを現在の言葉に変えることが出来たならば、それはとても、すごい内容になるでしょう、もちろんお釈迦様の悟りの全てを今の科学技術や言葉で解明することはとても難しいことと思います。
話しが長くなるのでキーワード的に仏教の教えを単細胞な私の勝手な考え、イメージを起こしてみた。
お釈迦様の教えの行き着く先は慈悲しかない。(他利)
宇宙の真理を擬人化して表現。
究極の思考「空」
維摩居士ゆいまこじ(最勝老人)という東浄土から地球?に転生してきたというすごい在家信者がいる。(これってスターシード?)
維摩居士はお釈迦様の教えをさらに押し広げてさらなる視点、次元に導くとても興味深いキーパーソンです。(二項対立、空の教え)
人としての在り方、道徳的な教えがたくさんある。自分の行動、行いによって人生、世界は変わっていく。(パラレルの選択)
お釈迦様の説いた教えは滅法の時代(約1万年後?)には無くなる?らしい。
(技術的進歩によってお釈迦様の教えは全て?解明されるのかも?)
お釈迦様は滅法の時代でも仏説無量寿経(浄土三部経)の教えだけは永遠に残ると説かれています。(宇宙の真理だから)
掃除による功徳の教え(物質世界を生きるヒント)
お釈迦様は涅槃を迎えられる直前に他人を拠り所とせず、自分を拠り所、自分を頼りにする。法(真理)を拠り所とすることが大切である。「自灯明法灯明」の教えを説かれた。
この「自灯明法灯明」の教えはとても深く簡単に理解することは難しく感じます、あえて言うのならば、「自分軸」の確立でしょうか?
お釈迦様はどのような時代であっても自分自身の在り方がとても大切だとおっしゃっている気がします。
私たちは大宇宙の一部である4%という物質の世界、私たちが作る現実に生きています。
「時間、空間、物質は互いに独立したものではない密接不可分である」
命(宇宙の真理)を宿した自分という物質の在り方。
因果応報、原因結果、善果悪果、善種悪種、十二因縁、全ては私の世界、私の空間に表れる。
大丈夫です。お釈迦様は迷う戸惑う私たちにたくさんの答えを説かれました。
また、テクノロジーの進化によって、たくさんの方々の経験を知ることができる。
注意は必要ですが、シェアすることができる。
解決するではなく、私たちの答えはたくさんあるはずです。
大丈夫。私が求める答えは目の前にあった。
お釈迦様は悟りを得た時に一瞬の戸惑いを感じました。
誰が私の得た真理の悟りを信じる者が居るのだろうか?
お釈迦様の悟りは深遠で摩訶不思議、雲を掴むようなものかもしれないと想像します。
しかし、それこそが宇宙の真理、超現実ではないかと考えてしまいます。
私は現実を生きながら、超現実を生きている。
末法という時代だからこそ、お釈迦様の教えを生かすことができる。
むしろ、末法に生きる私たちの為にある教えだと私は考えています。