Rie0123

自分の人生を振り返ってみて感じたことや考えたことをアウトプットしてみました。

雑文。自分軸って何だろう?

自分軸って何だろう?

ぶれない自分、ありのままの自分で、自分らしく生きる。?

こんな感じかなと、自分軸に対して私の勝手な印象があります。

違う見方をすると、頑固で自分の利権に固執していると考えることもできませんか?


安易に自分軸を目指すことって、人によっては危険ではないんだだろうか?


仏教では、基本的に人は自分自身に深く執着していて、
起きている時も寝ている時もどのような時も無条件に、無意識に己に執着して、煩悩(欲)と共に生きている。と、説きます。(末那識まなしき)

お釈迦様は、人々に全ての煩悩(欲)を捨て去りなさいとは仰っていません。
多少の煩悩(欲)は必要だが、
必要以上の煩悩による執着は手放しなさいと教えます。

人は自分を正義だと思うのです。

私は自分の勝手な正義で生きていると感じることがあります。

私は何をもって正義と考えているんだろうか?

自分の行いには権利があると、自分は許されると人は考えるのです。

極端に言えば、自分が加害者だという意識がない。
むしろ自分は被害者だと主張するのです。

私は人の持つ正義が怖くなります。
安易に自分軸を目指すことに疑問を感じてしまいます。


仏教には悟りの一つとして、「中道」の教えがあります。

「中道」とは、偏りのない視点、平等であり平等でない、ありのままを理解するという、やはり深い意識をもってしか理解できない教えです。

深い意識は人生の経験や生まれ変わりして魂の成長を通して得るものではないかと考えています。


いろいろと考え過ぎかもしれませんが、自分軸で生きるということは、他人の悪意に振り回されることからできる限り離れ、自分自身の在り方を考える。

自分の望み通りの選択が正解ではないこともあります。

しかし、どんな人も唯一無二の存在であり、自分の可能性や自分にとっての最良の選択は必ずあるはずです。


仏教には、たくさんの道徳的な教えがあります。
お釈迦様は、煩悩と共に生きている私たちに、余計な寄り道をせず、貴重な人として生きる時間を無駄にする事なく精進せよと仰っているのではないでしょうか。

仏教では、この世の真理を知りたいならば、知識より情であると説いています。

お釈迦様の教えは宇宙の真理であり、大慈悲の表れだと感じます。


私は煩悩(欲望)まみれの人間です。

私はたくさんの人生の寄り道をしてきました。
全てが無駄だったとは思わないけれど、もしかしたら違う人生があったのかなと少しだけ思うこともある。

でも、どう考えても私の人生は、私にとっては正解なんだよね。


私は苦しみとは何かと考えるより、苦しみと向き合うノウハウを知りたい。

人生においての苦しみや葛藤、疑問点については、たくさん具体的にいろいろと考えて来ました、そして、もしかしたら誰かの何かの問う答えが、私の人生の中にあるかも知れないと思い、文字に起こしてみることをしたのが、このブログです。

多分、その誰かは、1人の方だけかもしれませんし、そもそも誰もいないかもしれません。

私はそれで良いと考えています。

迷いがあるのならば、答えが欲しいのならば、自分を整えてみる選択も有りかもしれません。